LOGINユージーン・ヴァルモント公爵は、最後の日にも白い手袋をしていた。
皺ひとつない、上等な手袋だった。 灰色の礼服も、銀の杖も、磨かれた靴も、昨日までと変わらない。 まるで、自分は何も失っていないのだと言い聞かせるような整い方だった。 王宮東棟の処分確認室。 そこに集められた者は多くない。 王太子アーヴィン。 王弟宰相ギルベルト。 王国監査官リディア・ヴェルクレア。 監査局記録官ロザリー。 補助官セオ。 そして、ヴァルモント公爵本人。 以前のように旧貴族派の取り巻きはいない。 夫人方もいない。 式部局の者も、王妃宮の女官もいない。 ただ、処分文書と、署名台と、証人たちだけがある。 それがかえって、ヴァルモント公爵の孤立を際立たせていた。<オルガ・ヴェルクレア公爵夫人は、受領書というものを軽く見ていた。 少なくとも、以前の彼女はそうだった。 物資が届けば、使用人が確認する。 寄付金が動けば、会計係が記録する。 茶会の収支は執事長が整え、礼状は書記係が下書きし、最後に夫人である自分が目を通して署名する。 それが、公爵家の慈善だった。 美しい封筒。 整えられた字。 感謝の言葉。 夫人方の穏やかな微笑み。 銀の茶器。 白い花。 そこに、木箱の数や、毛布の枚数や、石鹸の重量などというものが入り込む余地はなかった。 少なくとも、オルガの中では。 だから、彼女は今日、王宮東棟の雨音基金準備室で、一枚の受領書を前にして、完全に固まっていた。「公爵夫人」 監督官の声は、決して荒くない。 むしろ丁寧だった。 丁寧すぎるほど丁寧だった。 それが余計につらい。「こちらの欄には、納入予定数ではなく、実際に受領した数を記入してください」 オルガは、羽根ペンを持ったまま、紙を見つめた。 納入予定数。 実際に受領した数。 似ている。 いや、似ていないのかもしれない。 だが、今の彼女には似て見えた。 書類にはこうある。『冬季支援用毛布 納入予定数:百二十枚 実受領数:百十六枚 不足数:四枚 備考:運搬中破損二枚、積込時確認漏れ二枚。再納入予定あり』 オルガは、その一番上の百二十枚を見て、受領欄へ百二十と書いていた。 美しく。 とても美しい字で。
第99話 宰相夫人のひいき リディアがハーグレイヴ伯爵家から受け取った最初の返事は、財産記録ではなかった。 正式な抗議状だった。『王国監査官リディア・ヴェルクレアは、私的な家族経験から生じた偏見により、善良な寄付者を不当に犯罪者扱いしている』「善良な寄付者」 ギルベルトが、感情のない声で読み上げた。 感情がない時ほど、彼は怒っている。 レイヴァン邸の朝食室。 焼きたてのパンも、温かい卵料理も、誰にも手をつけられないまま冷め始めていた。「続きがあります」 リディアは抗議状の二枚目をめくる。「読みたくない」「公文書です」「君が読めばいい」「先ほどから読んでいます」「私の前で読むな」「同じ部屋にいるので無理です」 ギルベルトは抗議状を睨んだ。 紙に罪はない。 だが、今の彼なら紙へ爵位剥奪を命じかねない。「オズワルド・ハーグレイヴ伯爵は、公開審問を要求しています」 ロザリーが淡々と報告する。「監査官による権限濫用の有無、寄付者への不当な圧力、伯爵家の名誉毀損について、王宮で明らかにしたいとのことです」「受ける必要はない」 ギルベルトが即答した。「受けます」 リディアも即答した。 二人の声が重なった。「なぜだ」「拒否すれば、権力で隠したと言われます」「言わせておけ」「雨音基金の信用へ影響します」「君の安全より基金を優先するな」「今回は石を投げられていません」「
聖ルカ孤児院へ行く日の朝、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相は、いつになく真剣な顔で荷物の前に立っていた。 王宮の会議室で旧貴族派と向き合う時も、ヴァルモント公爵の処分文書を読み上げる時も、ここまで険しい顔はしていなかった気がする。 目の前にあるのは、木箱三つ。 一つ目は、雨音基金設立前の臨時支援物資。 中身は新しい毛布、靴下、石鹸、薬草茶、簡易包帯。 二つ目は、子どもたち用の手習い板と筆記具。 三つ目は、王妃宮から届いた焼き菓子と干し果物。 そして、少し離れた椅子の上に、セレスティナが持参した焼き菓子の籠があった。 その籠だけ、なぜか誰も触れない。 リディアはそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。 避けているわけではない。 ただ、皆がほんの少し警戒している。 前回の焼き菓子が、なかなかの硬さだったからだ。「閣下」 リディアが声をかけると、ギルベルトは木箱から目を離さずに答えた。「何だ」「そんなに見つめても、荷物は軽くなりません」「配置を確認している」「配置?」「馬車へ積む順番だ。一番重いものを奥に、すぐ使うものを手前に置く。孤児院到着後に運ぶ動線も確認した」「……本当に雑務係として本気ですね」 そう言った瞬間、ギルベルトが静かにリディアを見た。「雑務係ではない」「失礼しました。荷物係でしょうか」「それも違う」「では」「宰相だ」「宰相が荷物を運ぶのですか」「必要なら」 この人は本当に、必要と言えば何でも押し通せると思っている。 リディ
名前を決めるだけの会議ほど、長引くものはない。 リディアは、王宮東棟の会議室でそれを思い知っていた。 机の上には、新しい救貧基金の設立案が置かれている。 白羽の会を解体し、王妃宮から独立させ、支援先代表と監査局が関わる透明な基金として再編する。 そこまでは決まった。 支援先が直接窮状を申請できる窓口。 寄付総額、実支援額、運営費の公開。 礼状文面指定の禁止。 茶会費、装飾費、記念品費を寄付金から出さないこと。 支援先代表の運営監査参加。 王妃宮や特定貴族家の政治的影響排除。 大事な骨組みは、もう決まっている。 だが、名前が決まらない。 それだけで会議は三時間目に突入していた。「ですから、格式というものが必要なのです」 グレイシア侯爵夫人が、扇を閉じながら言った。 彼女は白羽の会の旧運営委員ではないが、王都婦人慈善連絡会の代表として出席している。 悪い人間ではない。 悪い人間ではないが、自分が格式という言葉を使う時、なぜ人が少し疲れた顔をするのかまでは、まだ理解していない。「救貧基金というものは、ただ物資を配る箱ではありません。寄付者に信頼を与え、支援先に安心を与え、王都社交界にも品位ある形を示さなければなりません」 リディアは、手元の候補名一覧を見る。 一つ目。『王妃宮救貧基金』 却下に近い。 王妃宮から独立させるための基金なのに、王妃宮と名付けてどうするのか。 二つ目。『王国慈善透明基金』 正しい。 とても正しい。 だが、あまりに硬い。 監査局の書類棚
ユージーン・ヴァルモント公爵は、最後の日にも白い手袋をしていた。 皺ひとつない、上等な手袋だった。 灰色の礼服も、銀の杖も、磨かれた靴も、昨日までと変わらない。 まるで、自分は何も失っていないのだと言い聞かせるような整い方だった。 王宮東棟の処分確認室。 そこに集められた者は多くない。 王太子アーヴィン。 王弟宰相ギルベルト。 王国監査官リディア・ヴェルクレア。 監査局記録官ロザリー。 補助官セオ。 そして、ヴァルモント公爵本人。 以前のように旧貴族派の取り巻きはいない。 夫人方もいない。 式部局の者も、王妃宮の女官もいない。 ただ、処分文書と、署名台と、証人たちだけがある。 それがかえって、ヴァルモント公爵の孤立を際立たせていた。 リディアは、机の上に置かれた処分文書を見つめた。 紙は厚く、白い。 だが、王妃宮の白さとは違う。 隠すための白ではない。 記録として残すための白だ。 アーヴィン王太子が、静かに口を開いた。 「ユージーン・ヴァルモント公爵。白羽の会、王妃宮名義書簡、慈善支援配分、式部局評判整理案、ならびにヴァルモント公爵家秘書室関連文書について、王太子府および王国監査局は最終処分を決定した」 ヴァルモント公爵は、深く礼をした。 「拝聴いたします」 声は穏やかだった。 けれど、昨日までの余裕はない。 その穏やかさは、薄い氷のようだった。 触れれば割れる。 ただ、まだ割れていないだけだ。 アーヴィンは文書を読み上げる。 「第一。ユージーン・ヴァルモント公爵の王宮内全役
婚約発表の翌朝、リディアはいつも通りに起きた。 劇的な朝ではなかった。 小鳥が祝福するように鳴いたわけでもない。 窓から差し込む光が、昨日より特別に輝いていたわけでもない。 枕元に薔薇の花束が置かれていたわけでもない。 ただ、いつも通りの朝だった。 少しだけ違うことがあるとすれば、机の上に昨日の婚約発表で受け取った祝辞の束と、聖ルカ孤児院からの手紙と、ギルベルトから届いた封書が並んでいることくらいだ。 リディアは寝台から起き上がり、まず自分の手を見る。 昨日、自分の名前を言った手。 リディア・ヴェルクレア。 王国監査官。 そして、ギルベルト・レイヴァンの隣に立つことを自分で選んだ人間。 そう言った。 言えた。 その事実は、まだ胸の中で少し熱を持っていた。 夢ではなかったかと疑って、リディアは机の上の封書を見た。 ギルベルトの字だ。 硬く、まっすぐで、少し力が入りすぎている字。 昨日の夜、祝いの場から戻った後に届けられていた。 甘い言葉が書かれているのだろうか。 婚約者らしい、柔らかな言葉が。 そう思って開いたリディアは、最初の一行でしばらく沈黙した。『朝食を取ったか。取っていないなら、この書簡への返事より先に食べろ。』 ……婚約者からの、婚約発表翌朝の手紙である。 リディアは、便箋を持ったまま目を閉じた。 甘い。 いや、甘くはない。 まったく甘くはない。 けれど、妙にギルベルトらしい。 その下には続きがあった。『昨日はよく立っ







